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「落下の王国」(905asahi)

空想・現実つなぐ映像美
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 米国のCM分野で才能を認められたインド生まれのターセムは、「ザ・セル」で監督デビュー。26年間温めてきた
構想を実現したのが本作で、撮影に4年の歳月をかけた。
 1915年、スタントマンの青年ロイと5歳の少女アレクサンドリアが、カリフォルニアの病院で出会う。青年は
撮影中の事故が原因で歩けない。おまけに失恋して、自殺願望に取り憑かれている。樹から落ちて腕を折ったが、少
女は好奇心いっぱい。
 彼女の名に因んだアレキサンダー大王の物語を話したのがきっかけとなり、ロイは思いつくまま、愛と鮮欝燃え
る戦士たちの物語を語り始める。ふたりは、こうして、空想の世界へと旅立った。
 病院の場面は即興的手法で描かれるが、この旅物語は24カ国、13の世界遺産を駆け巡る。ほとんどが実写で、独自の映像美の不思議さを支えるのは、石岡瑛子の衣装だ。
 原題の(落下)という言葉は、文字通り青年と少女の現実の体験だ。その痛みと意識が空想の中では、深層心理と
なって反映する。二つの世界を繋ぐ暗示でもある。
 青年の語り始めは絶望の色合いが濃いが、お話の続きを聴きたい少女の一心が物語に作用し、いつしか彼女白身も
参加して、人生に希望を与える。空想紐現実が同化していく発想は傑れている。
 生。死。愛。更に昔の映画への賛辞も込めて、異なった映画手法で措くターセムの夢は壮大だ。時に感動が削がれ
るのは、思いの丈を詰め込みすぎるせいかもしれない。
 それにも拘わらず、幾つかの映像が鮮烈に記憶に残る。滅多に見ることの出来ない世界に実在する絶景。ころころ
太った少女の生噛力と、居じるその強い心に魅かれて。(秦 早穂子・評論家)
 6日から東京・シネスイッチ銀座ほかで順次公開。

「わが教え子、ヒトラー」ダニー・レビ監督(829asahi)

笑いで独裁者引きずり下ろす
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 ヒトラーに演説の指導をしたユダヤ人を措いた「わが教え子、ヒトラー」が9月6日から東京・渋谷のル・シネマで公開される。実話にヒントを得ながらも、フィクションや害劇的要素を盛り込んだ。ユダヤ人のダニー・レビ監督=写真=は「ヒトラーは否定的な存在だが、今でも大きなモニュメント。笑いの対象にすることで、引きずり下ろす効果がある」と語る。
 ドイツ帝国を舞台にした映画を構想していた時、一冊の本に出合った。32年、ナチ党の党首ヒトラーに随行し、発声やジェスチャーの方法を教えたドイツ人の実話。「コメディーに使えると思った。多くの人が話術の天才だと考えている彼に、実際は教師がいたというのは笑える」
 脚本では、教師をユダヤ人の元俳優に、教えた時期を敗戦直前の44年に変えた。心身を病んだヒトラーが力強く演説できるほどの威勢を取り戻せるようにと命じられる設定のほか、エピソードの多くにフィクションと笑い話を織り交ぜた。
 ジャージーを着たヒトラーが心理セラピーを受け、幼少期の心の傷を告白。側近よりも教師を倍額し、やがて2人は友情に似た感情を抱く……。大胆に想像力をふくらましたのには理由がある。
 「映画で、歴史を複写できるという考えには懐疑的。特に戦争は」という。一方で、「コメディーは真実と説明しない分、従順性を求めず、観客の考えや抵抗を誘発する点で誠実」と分析する。ユダヤ人はアイロニー好きだという。「ドイツ人は自分たちのことをなかなか笑えないが、それができるのは健康的なことだ」 (高橋昌宏)

リアル江戸期の魚図鑑(828asahi)

トビウオ・ギンブナ…柑種
神奈川でパネル画発見
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 江戸時代に高松藩主・松平献栽がお抱えの絵師に描かせた魚類図譜戴鮎恵野の一部とみられるパネル画4枚が、神奈川県三浦市の東京大学大学院付属三崎臨海実験所(赤坂甲治所長)で見つかった。10代将軍徳川家治に献上されたのち行方不明となっていた。魚のトゲまで一本一本正確にはり付けられており、貴重な資料となりそうだ。(清水弟)
 発見したのは動植物誌を研究している磯野直秀・慶応大名誉教授。昨年4月7日、同実験所で開催された創立120周年記念シンポジウムに招かれ講演した。講演後、会場入り口の展示ケースにあるA3判大のパネル画に気付いた。江戸時代の魚図でトビウオ、ギンブナなど計18種が詳細に措かれていた。
 香川県歴史博物館(現香川県立ミュージアム)にあった「衆鱗図」 (高松松平家蔵)とよく似ていた。「衆鱗囲」は1762(宝暦12)年に「衆鱗手鑑」を献上後に頼恭が作らせた増補版。魚類と海産無脊椎動物など計652種が描かれている。その原本である「手鑑」には魚を中心に計461種が描かれていたことが目録で分かっている。
 パネル画は「衆鱗図」の写しかと思われたが、魚名の表記の仕方が違った。「衆鱗図」にないアナゴの幼魚も描かれ、「手鑑」かもしれないと考えられた。東京・築地の「おさかな普及センター資料館」の坂本一男館長と調べ、「衆鱗手鑑」の原本かその写しにほぼ間違いないことが分かった。磯野さんは「魚のトゲまで台紙に張る丁寧な作り方は『衆鱗図』と同じ。パネル画は原本の可能性が高い」とみる。
 パネル画は明治時代、三崎臨海実験所に滞在したコロンビア大学の魚類学教授、ディーン博士が入手したもの。小林英司・東大名誉教授が交流の記念として実験所にもらい受けていた。
 コロンビア大に残っていたパネル画はいま、同大学東亜図書館に移管されている。パネル画は33枚で、魚類とウミウシなど127種が描かれていることが分かった。「衆鱗手鑑」の約3割が残っていることになる。

ウマイヤモスク(720asahi)

シリア
所在地:ダマスカス
完成年:714年
藤森照信(建築史家)
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 イスラム建築はなじみが薄い。至高の聖地メッカとメディナは、研究者であれど異教徒は入ることはできないし、各地のモスクをいくつか訪れたことはあるが、内部は高度な建築的演出が計られているわけではなく、メッカの方向の壁に小さなくぼみ(ミフラーLブ)があるばかり。すばらしかったのは、スペインの例(アルハンブラ宮殿、コルドバの大モスク)くらいか。私以外の人もなじみ薄なことは、このシリーズ、あまりイスラム建築が登場しなかったことからも分かるだろう。
 地中海世界きっての古都で知られるシリアのダマスカスを訪れた時、ついでにウマイヤモスクに寄った。聖書にも登場する長い一本道を進み、途中で折れてこの地方固有の迷路状過密商店街(スーク)を抜けると、急に巨大な塵に囲まれた一画が現れ、靴を脱いで小さな入り口からもぐり込むように入ると、そこは……。
 天国だった。物と人と騒音と臭いが渦巻くスークの雑踏をこの世とするなら、開放感も静けさも美しさもこの世とは思えない別世界が広がっていた。
 といっても、肝心の礼拝堂ではない。壁にミフラーブが附き、柱が並び、絨毯の敷かれた礼拝堂はいつものように暗く、広いだけ。異教徒の建築探偵の目にも天国と思われたのは、礼拝堂の前に広がる中庭の方だった。靴を脱ぎ裸足になって、まず入るのはこの由庭なのである。
 白い大理石が敷き詰められた幅137㍍、奥行き63㍍の中庭。礼拝堂をのぞく三方は回廊に囲まれ、中央には泉が設けられ、教徒は手足を洗い、口をうるおしてから礼拝堂に向かう。
 礼拝堂の中庭に面した外壁の中央部には、モザイク画が描かれているが、イスラム建築に多い抽象的な装飾画ではなく、いたって具体的で、木々が茂り、花が咲き、果実がたわわに実り建物がのぞく。バックは金。金屏風のごときモザイク画。
 イスラムに詳しい建築史家の深見奈緒子さんに確かめたからまちがいないが、■これこそ現存世界最古のモスク建築なのである。ウマイヤ朝が、714年、威信をかけて作ったのがウマイヤモスクだった。立派で当たり前。
 北に面した金地のモザイク画に光が回るのを待っていると、白い大理石の表面が夕陽を反射し、水を張ったように見える。モザイク画の木々も水面に映る。砂漠のオアシスを思った。
◆キリスト教会を転用◆
 シリアのダマスカスを首都にウマイヤ朝が成立したのは661年、ムハンマドの死から30年ほどの時期にあたる。
 その約半世紀後、ウマイヤ朝最盛期の第6代カリフ、ワリード1世が「ウマイヤモスク」を建設した。
 初期イスラム建築の代表的存在であり、もとあった洗礼者ヨハネのキリスト教会の一部を転用したと伝えられる。
 ビザンチン文化との関係をうかがわせる装飾的なモザイクや、2列のアーチがつくる力感あふれる内部空間などが
見どころとなっている。
 ●シリアの現在の情報を集めた「シリア・ゲート」(www.syriagate.com)のダマスカスの項目に、「ウマイヤモスク」のページが収録されている。書籍は『世界のイスラーム建築』(深見奈緒子著、講談社現代新書)がある。


鷲田清一さんに政治学者刈部直さんが聞く(804asahi)

「わかりやすく」の危うさば
鷲田.jpg刈部.jpg
写真は共に郭充
 「わかりやすさ」が人気だ。政治の世界でも教育の場でも。でも、何でも「わかりやすく」 でいいのだろうか。危うさは?
 苅部 鷲田さんが初めて一般読者向けに書かれた本、「モードの迷宮」は醐年の刊行でした。いま、哲学者がわかりやすい文章を書くのは流行のようになっていますが、そのはしりでしょう。できあいの思想をかみくだいて説明した本なら苦からありますが、一見平易でありながら、どこか頭の中でつかえて、思考を刺激する作品が多く出てきた。しかし他方、複雑なはずの問題について、正否を単純に断じる議論を「わかりやすい」と歓迎する風潮が、政治の領域をはじめ、世の中にあります。この二つの「わかりやすさ」はずいぶん違いますね。
 鷲田 編集者の故・安原顕さんに、一般向けに書くときは哲学用語を使うな、と鍛えられました。私は思考の現場に読者を巻き込んで、一つのことをすぐには言い切らず、ねちねち、いろいろな方向から行ったり来たりします。だから、読者には難しいと思われているのでは。
 苅部 例えば円錐のように、見る方向によって形が異なる物体について、様々な断面図を同時に感じ取ってながめる。物事に対するそういう姿勢を、鷲田さんの文章に感じます。
 鷲田 思考自体に「ひだ」がないといけない、つるつるした、平らな表面じゃなくて、という思いはあります。
 苅部 同時に、「きしみ」や「ひび」など、不安な手応えのある形容も使われますね。
 鷲田 私がですか? 気がつ意識にみられる、つねに前に進もうとする強迫観念を指摘されています。身近な読書の世界でも、この本のやり方でたちまち成功できるといった、短期の効果ばかり期待して、長い年月をかけて見定める余裕がどうもなくなっている。
 鷲田 「わかる」とか「わかりやすさ」には2種類あると思います。一つは、ふだん漠然と思っていることや、もやもやと考えていたことを、他人が別の言葉でボンと言ってくれ、認めてくれる。だからベストセラーになるんです。安心できるんですね。もう一つは、わかつていたつもりのことが全部ちゃらになる。一から組み替えないとい
けない、と突きっけられる。
 苅部 前者は、小泉元首相にみられたワン・フレーズ・ポリティクスにも通じますね。
 鷲田 彼が使う言葉は、国民の多くが日常の中で感じていたものです。その強度を上げて、ややこしいものは全部抜きにして、ドンと出す。ニュアンスや複雑さへの配慮をあえてせず、それが社会で受けるところに、何か人々の深いいらだちや暴力性の澱を感じます。じやあ、後者のわかりやすさがいいかというと、こっちも危ない。全部語り直すというのは、幼稚というか性急というか。世界を全部変えてしまおう、みたいな……。
 苅部 カルトにもつながる。
 鷲田 思考の熱狂をあおっちゃいけないんです。どんな時代でも、誰もが反対しにくい思想があると思うんですが、今ほどそれが並列でいっぱいある時代は珍しいのでは。土コっていうと反エコは言えないし、クールビズも私は抵抗したけどだめ。
 苅部 たばこもそうでした。
 鷲田 結論が出なくてもいい、出ないまま、それでも決定しなければならないのが私たちの社会生活だとすると、それをしばらく延期するところがあってもいい。気が晴れない、もやもやしている、そういう時に人は「わかりたい」って思うんだけど、「わかった!」っていうカタルシスを求めてしまうと、問題設定も答えも歪んでしまう。
 苅部 異なる価値や利益を追求する者どうしが、どうやって共存するか。それが政治の役割だとするなら、当然、討論や調整に時間がかかることになる。その手間を省き、とにかく「民意」に沿ったように見える決定を、手あたり次第に行うのは政治の自殺でしょう。世論調査の結果に合わせて政策を打ち出し、人気を得る方法もたしかに民主的ではある。でも、そこで前提とされる「民意」が、本当に人々が思っている内容なのか。全体の利益と重なるのか。
その検討が飛ばされてしまう。
 鷲田 僕はよく「思考には溜めがいるんですよ」って言うんですが、ある人に「じゃあ溜めをつくるにはどうしたらいいのか」と聞かれました(笑い)。
 苅部 「実用」志向ですね。
 鷲田 「溜めをつくろう」というのは、そういう問い方はやめましょうということなんです。でも、わからないことに耐えられない。すべてが説明できるとは限らないという苦痛をヒリヒリと感じ、息を詰めていないといけないということもあるんです。わからないことへの感受性をどう持ち続けるか。
 僕らが生きている時代って 「時を駆る」でしょ。あらかじめやっておくとか、先を読むとか。先に先に、という思考法です。でも、答えを急いで出さず、問いを最後まで引き受ける。じつくり考えたり、寝かせたり。すぐにわかろうとしないで、機が熟すのをじっと待つ。それも大切じゃないでしょうか。大事なのは腹の底からの納得
         ▼対談の余白に苅部直′
 「わたしは白分の顔から遠く隔てられている」。鷲田さんの本「顔の現象学」のなかの言葉である。
 こんな風に、鷲田さんの文章は、ほとんど簡単な日常語でつづられている。だが、安易に読み流すことを許さない。それが何を意味しているのか、たちどまって考える営みへ、読者をひきこんでゆく。磯が熟す、というご発言
を敷術して言えば、言葉をたどりながら、自分のなかに流れている時がじっくりと熟して、内容を腹の底から納得できるようになる。
 これが、「わかりやすい」表現の本当に大事なところなのだろう。対談の時間はあっという間にすぎたが、濃密な余韻があとまで残った。
 かるべ・ただし 65年生
まれ。東京大教授。日本政治
思想史。著書に「丸山眞男」
「移り、ゆく『教養』」など0

葛原妙子の美と戦慄   松浦寿輝(804asahi)

 わたしは二十二歳で、詩を書きはじめようとしていた。五・七・五の定型には通り一遍の興味しかなかった。その頃たわむれに作ってみた短歌が多少あるが、塚本邦雄の亜流で取るに足らぬものである。
 しかし、詩でいったい何を謳うのか。二十二歳の青二才には深い思想も熱い倍仰もなく、国の敗亡といった歴史的事件に立ち会った経験もない。かと言って、花鳥諷詠の抒情に浸る気も、甘ったるい恋愛詩に陶酔する気もなかった。わたしの関心は、日常生活のただなかでふと時間が裂け、空間がほころび、彼方の「何か」が見える一瞬を言葉で掴み取ることにあった。
 口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
 晩夏光おとろへし夕 酢は立てリー本の填の中にて
 そんなとき、わたしの視野にせり上がってきたのは、吉岡実の詩とともに葛原妙子の短歌である。昏く静まりかえった形而上的世界がそこにはあった。「幻視者」葛原妙子。重要なのは、その「幻視」の一瞬を彼女が掴み取ってくるのが、変哲もない日常のただなかからだという点だ。口中に葡萄の果汁が送る一瞬、翳ってゆく陽光の中、酢が天に向かって垂直に立つ一瞬−そのとき、日常を超える「何か」が人の魂と身体をうつ。
 同時にまた、その「何か」の到来を結晶させて潔く立っているこの一行の詩の、凍とした立ち姿に報る美はどうだろう。「すなはち」の強引な論理化の迫力、「晩夏光おとろへし夕」の後の一字分の空白が湛える緊張感はどうだろう。
 以来、三十数年、葛原妙子の短歌を折に触れ読み返しては、その戦懐から多くの糧を得てきた。数年前に書いた中篇小説「鰊」の冒頭にエピグラフとして掲げたのは、
 いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑のある蝶を下げて
 である。わたしは実は、この怖ろしい一首ただ一つから出発して想像を膨らませ、物語の全体を創り上げたのである。  (作家・詩人)

「敵こそ、我が友〜戦犯クラウス・パルピ1の3つの人生〜」(8asahi)

重層的な20世紀裏面史
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 クラウス・パルピー(1913〜91)、またの呼び名は(リヨンの虐殺者(ブッチャー))。多くのフランス人に
とっては、許しがたき存在だが、一体、彼は何者か?
 ナチス・ドイツのゲシュタポとして、彼は43年、リヨンで抵抗運動の統一者ジャン・ムーランを逮掃、拷問。ムー
ランはドイツヘ護送中死んだとされている。更に多くのユダヤ人を収容所に送ったが、孤児院の子供たちの命まで奪
い、生き残ったのは1人。戦後は米陸軍情報部(CIC)に雇れれ、冷戦下、反共政策の工作員として活躍した。
 フランス側のパルピー引き渡し要求をかわすため、CICは彼と一家を南米のボリビアに逃がす。51年から83年ま
で、パルピーはナチス残党の首謀として、第四帝国の建国を夢見た。ここまでは、他の優れたドキュメンタリーでも
追及されてきた。
 本作は、ムーラン、ユダヤ人、わけてもチェ・ゲバラ暗殺計画に彼が関与した新事実を縦糸に、出生から、3度の
変名、獄死までを横糸とし、20世紀の裏面史を重層的に決り出す。
 スコットランド出身のケビン・マクドナルド監督は、数多くの資料証言を土台に深い闇に迫る。問題はあまりに複
雑で、理解出来にくい点もあるが、世界の権力構造は今も決して変わるまい。歴史は長い年月をかけて検証するも
の。それにしても事実は想像を絶し、真相は謎だ。
 恐怖の弁護士と言われるヴェルジェスはパルピー裁判の法廷で、被害者であるフランス人は加害者でもあ息と指摘
し、人間の責任を追及する。政治、歴史を超え、裏切り、関節醐細鰯配宛㈹重要な作品である。
  (秦 早穂子・評論家)
 26日から、東京・銀座テアトルシネマ他で順次公開。

聖ハリストス救世主教会(8Asahi)

救世主ハリストス聖堂
ロシア
 所在地:モスクワ市ボルホンカ通り15
 建築年:1883年、1999年再建
 建築家:コンスタンチン・トンほか
山盛英司(西部本社報道センター)
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 トルストイの名作『戦争と平和』の背景となったナポレオン戦争を、ロシアでは「祖国戦争」と呼ぶ。1812年、皇帝アレクサンドル1世はフランス軍を撃破。祖国の勝利を記念してモスクワに計画したのが、救世主ハリストス(キリスト)聖堂だ。
 実際に建築が着手されたのは、弟のニコライ1世の時。国家統治にロシア正教会の力を必要とした皇帝は、大クレムリン宮殿を設計したコンスタンチン・トンをはじめ、画家や彫刻家を動員。さらに2代の後、19世紀のロシア芸術の結晶といえる聖堂が完成した。
 その間、ロシアは戦争や暗殺で捲れた。聖堂完成の前年、トルストイはモスクワの市勢調査に参加し、都市の厳しい貧困を目撃。国や教会への批判を強めた。文豪の目に、金色のドームを冠した高さ103㍍の白亜の聖堂は、政治と宗教の危うい結合に映ったろう。
 やっと完成した聖堂だが、寿命は長くなかった。
 社会主義国家ソ連の誕生だ。スターリンが権力を掌握。次々と教会を閉鎖した。その象徴がハリストス聖堂だった。1931年、なんと爆破された。
 跡地に計画されたのが、「ソビエト宮殿」だ。古代神殿のような宮殿の頂に、革命の指導者レーニンの巨大像がのる。高さ415㍍。当時、最も高かった米国のエンパイアステートビルをしのぐ。権力者が仮託した野心が透ける。
 だが、第2次世界大戦などで建築は断念。跡地は、屋外プールになった。
 実はこの場所には、不吉なうわさがあった。ある修道院長が、「この場所に建つものはすべて破壊される」と予言したというのだ。果たして、プールも壊された。ソ連の崩壊。聖堂再建の運動が起きた。モスクワ市は開都850年の目玉事業として再建を決定。99年、ロシア正教会にとって「最も重要な教会」がよみがえった。しかも、聖堂を忠実
に再現したのだ。政治の中枢クレムリンの南西、モスクワ川に面して1万人を収容できるという聖堂がそびえる。足を踏み入れると、荘厳な空間が広がる。天井から注ぐ光に、数々のイコン(聖画)が輝く。なんといナ姦靴な復元
力だろう。篤い信仰心とともに、「強い祖国」の復活への願望が伝わってくる。
 政治との関係も復活した。07年、エリツィン元大統領の盛大な国葬が開かれた。08年の降誕祭には、まだ大統領候補だったメドページェフ現大統領が出席。メディアは聖堂を「後継者のための教会」と伝えた。
●正教会・専制・国民性
アレクサンドルl世を継いだニコライl世は、「正教会、専制、国民性」によって国を統治しようとした。多くの記念碑を造ったが、代表が救世主ハリストス聖堂だ。すでに計画案があったが、コンスタンチン・トン(1794~1881)
が再設計した。着工から完成まで40年以上かかつた。一方、「幻の建築」となったソビエト宮殿は、ボリス・イオファン(1891〜1976)の計画案をもとに構想された。断念された宮殿の跡地にあったプールは.「モスクワ」という名で、長く市民に親しまれた。
 ●救世主ハリストス聖堂の歴史については、聖堂のサイト(www.xxc.ru、ロシア語と英寿)が詳しい。聖堂とソビエト宮殿については、『ロシア建築案内』(リシャツト・ムラギルディン著、TOTO出版)に紹介されている○


進化の大ギャラリー(713asahi)

生命の力強さ伝える「方舟」
遺産 1.jpg
 フランス
所在地:パリ市5区、植物園内
完成年:1994年(改装)
建築家:ポール・シュメトフ、ボルハ・ユイドプロ
松葉一清(武蔵野美術大教授)

 ノアの方舟、それが街の片隅で眠っている−そんな話をパリのホテルにあった雑誌で目にとめ、矢も盾もたまらなくなり、確かめに出かけたことがあった。
 国立自然史博物館の大ギャラリーに、ゾウをはじめとする動物の剥製やクジラの骨格標本などがすし詰めという。誌面にはモノクロームのおどろおどろしげな写真が添えて満った。確かに多種類の動物がひしめき合う横は、来るべき洪水に備え、一腹の船に彼らが乗り合わせた風情だった。
 博物館の位置する、やはり再整備途上の植物園に出向き、なにかの施設の閉じられた扉ごしの薄晴い空間に、骨格標本らしきものをのぞいた記憶が残る。折から1989年のフランス革命200年祭を前に、ミッテラン大統領の主導によってルーブル美術館をはじめ国際級の文化施設の更新が進むなか、ここがどう様変わりするのか、想像をたくましくした。
 それから相応な時間がかかり、94年に「進化の大ギャラリー」がお目見えした。ダイナミックな展示は期待以上で、博物館展示の新時代を予感させた。
 もとは1889年完成の鉄骨の大空間(ジュール・アンドレ設計)のなか、方舟の乗船者たちはひとつの方向を向いて動感豊かに列をなしていた。正面から入館すると、彼らがこちらに突進して来るかのよう。動きのある展示は「進化」という言葉に抱く生命の力強さを実感させる。
 来館者は、突進する彼らのそばまで近づき、肌合いも間近で確かめられる。巨大な展示スペースは間口が25㍍、奥行きは55㍍もある。頭上には、博覧会の時代だった19世紀末が生み出した巨大なガラス屋根が張られている。現代の展示はそこからの自然光と、色調が時間を追って変化する人工照明をアレンジし、動物の突進を一段と劇的に見え
るように演出する。
 博物館の起源は、ルイ13世時代、17世紀の王立薬用植物園。フランス革命までの時期、半世紀も代表をつとめた高名な博物学者ビュフォンが「王立植物園」にして、革命期に現在の博物館に改組された。19世紀末の大ギャラリーは、世界各地の植民地などから集めた物珍しい自然標本を市民に展示する、もともとが「見せ物小屋」だった。110万点を超える貴重な標本の収蔵分類のために、施設が閉じられたのは1965年。改装再開場に30年近くを要したことになる。
 新たな船出により、方舟に乗船できるわたしたちは幸せ者だ。
遺産2.jpg
◆パリ再興計画の一環◆
 フランス国立自然史博物館「進化の大ギャラリー」は、ミッテラン大統領が1981年の就任時に打ち上げた、大規模文化施設によるパリ再興計画「グラン・プロジェ」に後から組み入れられた。大蔵省と国立図書館の都心からの移転とともに、開発が遅れ気味だったパリの東部地区を活性化する役割も期待された。
 「進化の大ギャラリー」改装の建築家はシュメトフとユイドプロ。この2人はセーヌ川対岸に位置する新しい大蔵省の建物も手がけた。シュメトフは東京・代官山の「A.P.C.ビル」の設計者でもある。
 ●「国立自然史博物館」の公式サイト(英語あり、WWW.mnhn.rr)に、「進化の大ギャラリー」の視界360度のパノラマ写真、改装の経緯、博物館の現在の展示、収蔵物の解説をはじめ、隣接する植物園の地図なども収録さ
れている。


コール・ド・バレエ(711asahi)

群舞こそ神髄
 コール・ド・バレエ(群舞)をバレエの脇役だと思ったら、それは大変な誤解というものだ。ソロやパ・ド・ド
ゥの華やかさにも引けを取らない、バレエの神髄そのものと言っていい。
 コール(cOrpS)はフランス語で、「体」のほかに「部隊」の意味がある。ルイ14世時代に花咲いた宮廷バレエでは、群舞こそ一番の見所だった。平和や愛、神の恩寵などを象徴する多彩なfigure(図形)が織り成されたが、軍事用語が語源の群舞で国家権力を誇示したのである。
 コール・ド・バレエはその後も進化し続けたが、ロマン主義の波を受け、表現対象は国威発揚から夢幻世界へと
変わっていく。19世紀前半のロマンチックバレエを経て、19世紀後半、プティパによって花開いたクラシックバレ
エで幻想美は頂点に達した。
 例えば、「ラ・バヤデール」の第3幕「影の王国」。精霊がアラベスクのポーズをしながら1人ずつ現れて勢ぞ
ろいする場面の愉悦感はたとえようもない。ドラマが盛り上がる中で、群舞は物語の核となる雰囲気をズームアッ
プして描き出す。それは見る者の魂がこの世ならぬ世界へとトリップするための装置なのだ。  (上坂樹)

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