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映画で権力に逆襲する(704asahi)

映画監督 若松孝二(中) 
いつもどおり上半身になにも身につけない半裸のまま眠りこけていた若い極道の男は内心、すでに覚悟を決めていた。
若松5.jpg
 夜明け間際にアパートの戸口をたたき続け、「電報です」としっこく呼びかける唐突な訪問者たちは、観念してドアを開けた起きぬけの男にすかさず手錠をかけ、問答無用で路上へ引きずり出す。57年、東京・新宿でヤクザになっていた若松孝二(72)は、こうして監禁などの容疑で逮捕されたのだった。
 発端はヤクザ同士のもめごとだ。手下の若い衆を痛めつけられた報復に、相手のチンピラを拉致して脅しっけると、腕時計1個を置いて逃げられ、贅察に訴えられたのだという。
 3年の執行猶予がついた懲役刑の一審判決が下るまで拘置所に拘蕪された約半年、若松は悔い改めるどころではなかった。暴力装置と化したときの公権力への怨念と復讐心を、度し難いぼどにたぎらせていたのだ。
 「相手が誰であろうと力ずくでねじ伏せられるのが我慢ならない性分で、反抗ばかりしていたから、懲罰房へぶちこまれっばなしだった。革手錠をかけられ、四方の壁にラバーをはりめぐらせた狭苦しい晴黒の部屋に閉じこめられていると気が狂いそうになる。いつかかならず、贅察の奴らに仕返しする企みばかり一心不乱に考えていた」
 仮に、人生のこのタイミングで身柄を拘束される事件がふりかからなければ、若松は映画監督として世に出ることばなかっただろう。極道の世界を生き接いて、武闘派の組長におさまっていたかも知れない。
 釈放されると真っ先に堅気になったのだ。権力ヘの復讐の企みをあきらめたわけではない。映画のロケ撮影の用心棒をしたときに知り合った関係者を頼って映画界に潜りこみ、映画で願望を成就しようとしたのだ。つまり、警官をぶちのめす映画を撮ろうとしたのである。
 予算300万円、「ヌードの女のうしろ姿を入れる」という条件で監督を持ちかけられ、聾官襲撃シーンを撮って宿怨を晴らした63年のデビュー作『甘い撃がいきなり当たった。こばれたビールと小便の臭気が紫煙と混ざりあってよどみ、男たちにもてあまされた性欲が切なげに殺気立つ60年代の場末のピンク映画館は、若松の映画が上映されるとかならず、大学生や若い労働者で満席になった。
 日大芸術学部に在学中、性器の欠損をモチーフに、閉鎖性の破壊というテーマを表囁ルた前衛的な自主制作映画『鎖陰』を監督して、当時のアングラ映画の新星ともてはやされた足立正生(69)は66年、ピンク映画など一度も見たことがないまま、若松の映画の助監督になった。
 「お前のせいで天気が悪くなった」と怒鳴られるぼど理不尽にしごかれ、殴りつけて決別しようとしたが結局、そうはならず、若松と表裏一体のような因縁でつながれることになった。
ゲリラの惨死に泣く
若松と足立は71年、カンヌ国際映画祭に招待された帰路、パレスチナへ旅立った。
 映画にのめりこむ執念を若松に見こまれ、大半を没にされながら100本を超えるシナリオを書きまくっていた足立は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)がハイジャック戦術を先鋭化させていたパレスチナ問題の学習にも深入りしかけていた。
 事の次第を足立はこう帯る。「パレスチナでは、祖国を追われた奴らがイスラエルを敵に回して解放闘争をやっている。記録映像を撮れば、テレビに売れるって言ったんだ。苦労人の看ちゃんは商売上手な一面もあるから、すぐ乗り気になった」
 このとき、現地で通訳をつとめたのは、赤軍派の海外拠点をパレスチナに創設しようとしていた重信房子(62)である。
 ヨルダン・イスラエル国境地帯のジェラシ山に散開する最前線のPFLP基地にたどり着い軌餌跳㍑酢㍍酢附配㍑ながら、撮影許可を待った。すると1週間後に突如、丸1日で撮影を終え、即刻、下山するよう命じられたという。
 ベイルートまで帰り着いた翌朝、3人は新聞を読んで、悪寒のような全身の震えが止まらなくなった。ジェラシ山の基地がイスラエルとヨルダンの棒攻撃で陥落したと伝える記事と、寝食をともにしたゲリラの兵士が見せしめに鉄条網の柱に絞首された写真が載っていたのだ。
 総攻撃を察知した下山命令で命を救われた恩義に感じ入った若松は、足立と酒をあおりながらむせび泣いた。
 =敬称略 (保科龍朗)

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